大阪に築かれた二つの宮殿 難波宮(なにわのみや)とは…? |
かつて大阪には、日本史上で二度、天皇遷都による都が
存在したと言われています。
一度目は、飛鳥時代の「難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)」であり、
二度目は奈良時代に聖武天皇が平城京から一時的に都を移したと
言われている宮殿を指します。
それらを総称して「難波宮(なにわのみや)」と言われています。
ほぼ同じ場所に二つの時期の宮殿がつくられており、
一度目の「難波長柄豊碕宮」のことを「前期難波宮」、
そして、もう一方(二度目の都)を「後期難波宮」と呼んでいます。
「難波宮」という名称は、歴史書に何度も載っていましたが、
その所在地については長い間不明のままでした。
しかし1961年、大阪市立大学教授の山根徳太郎氏らによる
執念の発掘調査の結果、聖武天皇時代の「大極殿(だいごくでん)」が発見され、
この地に難波宮があったことが確認されました。
現在の具体的な場所で言うなら、「大阪市中央区法円坂」の地に
難波宮の遺跡があります。
現在、難波宮の跡地の一部は、難波宮史跡公園となっています。
また、大阪歴史博物館の一角も難波宮の跡となっている為、
大阪歴史博物館の地下1階では、この敷地内で発見された本物の
古代遺跡を見学することができます。(当日予約要) |


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なにわ八百八橋って? |
豊臣氏の滅亡後、一時的に大坂は荒廃しましたが、
徳川氏によって復興し、物資運搬の為に多くの河川の改修や
堀の開削を行いました。
そのため、数多くの橋が架けられ、「なにわ八百八橋」と言われるほどに、
橋と水路が多い町となりました。
これは「江戸八百八町」や「京八百八寺」に対して言われた言葉であり、
実際に808の橋があったわけではなく、数の多さを表現したものです。
当時の橋の数を比べれば、江戸が約350に対して、
大坂は約180と、かなり少ない数字でした。
しかしなぜ「なにわ八百八橋」と言われていたのでしょうか…?
それは、江戸の橋は幕府が架けた「公儀橋(こうぎばし)」と呼ばれるものが
半数を占めていました。それに対して大坂は、幕府が架けた公儀橋は
わずか12にすぎず、ほとんどの橋は商人や町人たちの力で
築き上げたものだったからです。
この事から「なにわ八百八橋」と呼ばれるようになりました。
岡田心斎が架けた心斎橋や豪商淀屋が架けた淀屋橋は、
今もその名を残しています。
こうして水の都として復興した大坂は、経済や商業の中心地となり、
「天下の台所」と呼ばれ、商人の町として繁栄しました。 |

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「なにわ」から「大坂」へ 「小坂・大坂」から「大阪」へ |
古代において大阪は、「難波宮」のように「なにわ」と呼ばれておりました。
現在「難波」は、「なんば」と読まれ、大阪ミナミの中心地にその名が存在します。
今でも大阪全体のことを「なにわ」と呼ぶこともありますが、
その場合は「浪速」や「浪花」と書かれることが多くなっています。
そして、江戸時代の頃には、「大坂(おおさか)」と呼ばれるようになりました。
「大坂」以外にも「小坂(おさか)」と呼ばれていたようで、
「小坂」と表記された資料も数多く残っています。
大坂の「坂」という字は「土に返る」と読める為に、縁起が悪いということから、
江戸時代の頃から「大阪」とも表示されるようになり、1871年(明治4年)には
大阪府は「坂」を「阪」に正式に改めました。
その他の説としては、「坂」という字が、士が反く(武士が叛く)という意味に繋がり、
縁起が悪いということから、明治の新政府が「坂」の字を嫌った為に、
大坂から大阪に変わったとも言われています。
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