天守閣は、日本の戦国時代以降の城に建てられた象徴的な建造物であり、城の象徴でもあります。
この記事では、天守閣とはどの部分を指すのか、天守閣と城の大きな役割やその歴史についてご紹介しています。
天守閣とはどの部分なの?城との違いは?
天守閣は城の中で最も目立つ高い建物であり、他の構造物とはハッキリと区分されています。
城は城壁や堀、門など、多くの防御施設を含みますが、天守閣はその中でも最も高く、城主の権力と威厳を象徴する建物のことを指します。
天守閣は、城の中心として監視や防御などの重要な役割を果たしています。
天守閣の役割とは?
天守閣は、城主の地位と権威を目に見える形で示すように設計されました。
高い石垣の上に築かれ、当時の日本で最も高い建物の1つとしてそびえ立っていました。
石垣は切り出された石で作られており、それらの石は専用の船で運ばれました。
国の権力を示す壮大なプロジェクトの一環として、天守閣の重要性が際立っていました。
遠くからでも、その存在感により城主の力と富を知らしめる効果がありました。
また、天守閣は城主の威厳を象徴するだけでなく、実際の軍事的要塞としての重要な役割もありました。
敵の動きを監視し、城の防衛に欠かせない役割を果たすために、天守閣は高所から周囲を見渡せるように作られていました。
また、天守閣の内部には食料や武器を備え、長期の籠城戦に備えることができました。
権力の誇示(シンボル)として作られた一方で、実際の戦闘でも重要な役割を果たしていたのです。
天守閣の目立つ構造は、敵にとって攻撃の目標になるリスクもありました。
しかし、その圧倒的な存在感は敵を威嚇し攻撃を躊躇させる効果がありました。
天守閣が存在することで、敵に対する心理的な圧力を与えることができたのです。
天守閣は いつから造られるようになったの?
天守閣の起源は、安土城(安土桃山時代)にあります。
安土城は織田信長によって築かれた最初の天守閣を持つ城で、日本の天守閣の始まりとされています。
天正4年(1576年)から織田信長が約3年の歳月をかけて「安土城」を完成しました。
信長によって建てられた天守閣は、その壮大な造りが有名となり、ローマ法王にまで知られることとなりました。
敵の動きを見張る為などの軍事的な目的で敷地の1番高い場所に1番高い建物として建てられた天守閣ですが、その後 時代が進むにつれて「城主の権力を見せつける為のシンボル」へと役割が大きく変化して行きました。
戦国武将は天守閣に住んでいたの?
「戦国武将やお殿様は城の天守閣に住んでいた」と思っている人が多いようなので、その辺りのこともご説明しますね ^^
実は天守閣に住んでいたのは織田信長だけだと言われております。
天守閣の内部は主に柱や壁、木がそのままむき出しになっていて装飾は施されていませんでした。
しかし安土城に関しては天守閣部分にも豪華な装飾が施され、信長の居所として使用されていたことが確認されています。
では他の武将や大名は、どこに住んでいたのでしょうか。
それは、天守閣ではなく城の本丸や二の丸などに「御殿(ごてん)」と呼ばれる建物を造り、そこに住んでおりました。
天主から天守閣への変遷
天守閣は元々「てんしゅ」と呼ばれており、その呼び方に関しては諸説ありますが、織田信長が付けたとも言われています。
漢字についても、当時は「天守」ではなくて「天主」が使われていましたが、その後「天守」へと変わって行きました。
また、「天守」よりも「天守閣」という呼び方の方がなじみがありますよね。
「天守閣」という名称が広く使われるようになったのは明治時代前後の頃からです。
天守と天守閣は同じ意味を表していますが、建築学の学術用語的には「天守」の呼び方が正しくて、「天守閣」はいわゆる俗称だそうです。
まとめ
天守閣は、日本の城郭建築の中でも非常に重要な部分を占め、城主の権威と威信を象徴する建物として受け継がれてきました。
その起源は、織田信長によって建設された安土城に遡り、敵を監視し、籠城戦の準備を行い、そして城主の威信を示すために建てられました。
実際に天守閣に住んだ城主は織田信長だけだと言われており、その他の武将や大名は城の本丸や二の丸に建てた御殿に住んでいました。
明治時代前後から「天守閣」という言葉が広く使われるようになり、今日まで日本の城の象徴として親しまれています。
この壮大な建築物は、日本の歴史と文化の重要な一部を形作り、その存在は現代でも多くの人々に感銘を与え続けています。